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先週末の日曜日、初めて学校以外の礼拝に出席しました。三年時の必修授業、キリスト教オルガン研究のレポートを書くための準備で、”礼拝における音楽の役割”みたいなものを書かなきゃいけないらしい。「あぶない教会には決して行かないで下さい。」とだけ言い残して、さっさと渡伊してしまった先生。ってオイっ、勧誘されたらどうすんの?怪しい教会に行っちゃったらどうすんの?なんでそんな危ない課題出すの!?と、最初は不満の嵐だったが、たまたま友達の通
っている教会があるというので、ちゃっかり便乗させていただくことにした。
とは言っても、断固慎重派で石橋は叩いて叩き割ってしまうタイプの私は、やっぱり最初は厳重警戒体制。礼拝が始まってもその緊張の糸が緩む事はなく、ずっと異世界にいるような、妙な心地だった。こんな風に言ったら誤解を招くかも知れないが、周りの人が自分とは違うタイプの人たちに見えてならなかったのだ。何かよく分からないけど、ショックな気持ちが込み上げた。でも隣に居る友達が、音楽に対して一生懸命になるのと同じように、熱心に説教を聞いたり、お祈りしているのを見て、その子に対する気持ちに何も変わりがなかった事にホッとした。
あの時のショックな気持ちは、どこから来たんだろう。クラシック音楽をやりながら、キリスト教の学校に通
いながら、どこかで感じているキリスト教の矛盾、「一つの神様を熱烈に信仰する人を、否定はしないし、する権利もないけど、結局最後は理解できない」という諦めに似た
心、説教の中で「わずか1パーセントにも満たない日本のクリスチャン人口」と言っていたけど、そこの場にいた人の多さ。こんなに沢山の人が、何かにすがりたくて、正しいと思えるものに触れたくて、救いを求めてるのかぁ。。なんて、そんな全然関係ない事を、熱く説教を語る牧師さんの前で考えてたなんて、とても言えない。
帰り道、その子に聞きたい事がいっぱいあった。まるで幼稚園児の気まぐれな思いつきみたいに、「神様はどこにいるの?」「それはどんな姿をしてるの?」「例えば自分の大切な人が死んじゃって、でも『神様に召されたんだ』って言われたら納得できるの?」・・でも、全部聞いちゃいけないような気がして、聞けなかった。その人の信じてるものを、がさつに扱うような気がして、そんな事はできない、と思った。きっと、私を教会へ連れて行くのも勇気いったはずだから・・繊細で、心の優しいとてもいい子。
その子の信じるものは神様だったけど、私の信じるものって、なんだろ。
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