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この一年間、ただの興味だけで「コミュニケーション研究法」という授業
をとっておりました。この授業は、恐ろしく忙しい。そんな事はどうでもいいんですが、テーマはコミュニケーションに関する事であるなら自由で、私が選んだテーマは「同性友人間における親密度と類似性について」であった。
この一年、インタビューやらアンケート調査やらを通して出た結論は、「仲の良い友人に対しては、異質性(自分にはないもの)を求めている」という事
。しかし、「そんなの個人差じゃん。」と言われてしまえば、もう沈黙を決め込まざるを得ないのが、社会学研究の悲しい性。どうかどうか、そこには突っ込まず、寛容に受け入れていただきたい。
はて。ここにきてやっと、自分はどうなんでしょう、という疑問が浮上する。自分達の研究を弁護する訳ではないが、否、してしまうかもしれないが、しかし、当てはまっていると思う。
(してますね完全に。) 一言で「異質性」と言っても、その性質によって多義に渡るが、過去を振り返ると、仲良くしていた友人はいつも、自分になはい憧れる部分を持っていた。才能という名の宝石に魅了され、惹かれ、刺激を受ける事が常であった。それは今でも変わらない。
でも、世の中に同じ人は一人もいないのと同じように、相手によって友人との関係の仕方も変わってくるものなんだろうか。度々出てくる私の高校時代。相手の良い所だろうが悪い所だろうが、「言う」事が基本で、これは仲が深まる事もあれば、旅先で涙涙の大喧嘩をしたり、傷つけあう事も、はたまたこの性格上、呼び出し→お叱りも何件か引き起こしていた。どんな血なまぐさい高校生活・・・なんて想像はおよしになって。それはそれで好きだった。でもそれを考えると、今はそれより多少は丸くなったなァ。(え?)
しかし、「思った事しか言えない」という精神は、昔から変えられないようだ。つまり、お世辞が言えない、ということ。そんなんで、この先どう社会に対応していけばいいのか!ということはあまり深刻に考えてはいないようです。言い訳を言えば、思ってない事を口にすると、心と身体がどんどん離れていって、自分が自分でなくってしまうと感じるとともに、そんなのは相手に対して誠実じゃない!と。でもそんな個人的で一人よがりな「真実であることが誠実」とするのも、私の中だけの価値観でしかないのかな、と痛切に感じてみたり。世の中に、絶対的な正義などないから。
気が付くと題名の「トモダチ」から、話が完全にズレている。で、こんなにごちゃごちゃと書いてきて一体アナタは何が言いたいのか。たぶん。今、自分がどういう友人関係を望んでいるのか、という事が分からなくナッテいる、という事なのかもしれない。うん。たぶんそれだ。
ただ分かった事は・・相手に対して怒りが沸いたり、憎んだりできるのは、相手が好きだからだということ。だって、自分にとって関係の薄い相手には、嫉妬の感情さえ抱けない。
そんな曖昧な結論だけ残して、やっぱり悩む私。
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